イーストウッドが単純にかっこいいというのはもちろんのことだが、おもしろさを一言で言い表すことが難しい。現在でも現役で更新しつづけているのも驚きだが、わかりやすくこの人が変だなあという初期の映画「荒野のストレンジャー」について今回はかいてみます。
監督2作目である「荒野の〜」はとにかく説明がない。主人公は名前も過去も語らないし、この町も鉱山の利益で食べているというだけで実際に現場はうつらない。そして町自体もとても小さく何か変だ。どうやら町の鉱山利権を告発しようとした保安官が殺されてしまい、その復讐というか、怨念みたいな形でイーストウッドが現れたらしい。もちろんその関係性を告白するシーンもない。これは一体何の映画だろうか。 保安官は町の人達が用心棒を雇い殺させたらしい。だからもちろん町の人はそのことを知っている。自分たちの手は汚していないがわかってはいる。イーストウッド演じる流れ者が町の用心棒を殺したら、裁かれずにそれどころか再びやってくるであろう用心棒対策に雇われる始末。そうこの町には軸がないのである。警察をやくざが殺し、やくざが警察になる。そうするとまた警察を殺すためにまた別のやくざがやってくる。その繰り返しで善も悪もごっちゃになってよくわからない。それもこの映画のおもしろさの一つではある。しかし、町長以下町の人はその役割には入らない。これは彼らがいう「すべて水に流すのが我々の座右の銘」とまで言い切る。ここでこの町が書き割りのように新しくチャチく描かれているのがわかってくる。とんでもない色に町を染められることも彼らは受け入れる。すべては水に流れるから。ただし、墓標もたてられずにさまよう保安官の霊は主張する。自分が用心棒に殺された同じ場所で逆のことが起こる。そして再び町の人々は集められ目撃させられる。復讐する霊の顔は意図的に映らない・・
用心棒は聞く「お前は誰だ」 イーストウッド演じる流れ者は答えない。
イーストウッド本人もインタビューであいまいにしたといった。自分達でそれぞれ感じてほしいと。そうこの映画は因果関係で逃げられないように仕組まれている。 映画の秘密がここに隠されている。秘密をしゃべるはずかない。目撃するしかないのです。 イーストウッドが何でこんな映画を作ったのかおそろしい。狂っている。 やっぱり電子音ではじまる映画に明るい映画はない。
甲斐田祐輔 Yusuke Kaida
1971年生まれ。
『TWO DEATHS THREE BIRTHS』(99)、『coming and going』(99)、『RAFT』(00)、 2003年には『すべては夜から生まれる』を監督する。また2008年『砂の影』がロッテルダム、ブエノスアイレス映画祭等に正式招待、日本国内外で上映される。 最新作は音楽家中島ノブユキのドキュメント「みじかい夜」。